PROFILE

Birthday
1970/7/2
Nationalty
Tokyo, Japan
BodySize
H-182cm W-80Kg
BloodType
O+
Favorite
Motor cycle sports
Snowboarding
MTB

Racing History

1999 UAE デザートチャレンジ 総合19位(Motobike)
2000 ラリーレイド モンゴル 総合優勝(Motobike)
2001 パリ・ダカールラリー 総合21位(Motobike)
2002 パリ・ダカールラリー 総合12位(Motobike)
2003 パリ・ダカールラリー 総合16位(Motobike)
2003 ラリー・デ・ファラオン 総合9位
2003 AMVシャムロックラリー 総合3位
2004 パリ・ダカールラリー リタイヤ
2004 デザートエクスプレス 総合2位
2004 エスパーニャ・バハ 総合12位
2004 AMVシャムロックラリー 総合優勝
2005 パリ・ダカールラリー 総合11位
2006 イタリアンBAJA  完走
2006 パリ・ダカールラリー リタイヤ
2006 UAEデザートチャレンジ 総合13位 クラス1位
2007 パリ・ダカールラリー 総合25位 クラス優勝
2007 UAEデザートチャレンジ 総合7位 クラス2位
2008 UAEデザートチャレンジ リタイヤ
2009 ダカールラリー 総合31位 クラス4位
2010 ダカールラリー 総合17位 クラス優勝
2010 ファラオ・ラリー 総合3位 クラス優勝
2011 ダカールラリー 総合12位 クラス優勝
2011 ファラオ・ラリー 総合13位 クラス5位
2012 ダカールラリー 総合25位 クラス2位
2012 ファラオ・ラリー 総合5位 クラス優勝
2013 ダカールラリー リタイヤ
2014 ダカールラリー 総合21位 クラス優勝
2014 ラリー・モロッコ 総合12位 クラス優勝
2015 ダカールラリー 総合29位 クラス優勝
2016 ダカールラリー 総合56位 マラソンクラス13位(Motobike)

橋が4輪でダカールラリーに参戦する事になったのは、NISSANからドライバーでのパリダカ出場の話を持ちかけられた2004年大会からだ。

それまでは2001,2002,2003年とバイクで出場。2002年にはトッププライベーター賞も獲得するなど、ライダーとして国内外で活躍。そこに目を付けたのが、ちょうどファクトリー参戦中のNISSANだった。NISSANは日本人ドライバーを物色中であり、その候補としてライダーを起用するアイデアがあったからだ。

ライダーとしてチャレンジを続けるか、それとも心機一転、4輪で挑むか。苦渋の選択を迫られた三橋は、NISSANのオファーを受け入れ、プライベート参戦していたライダーから、プロのドライバーとして活動を開始することになる。

2003年夏。「若手育成プログラム」としてNISSANに参加し、研修先のフランスに飛び立った。4輪に転向してから三橋は、ほとんど練習する間もなくエジプトで行われた「ファラオ・ラリー」に参戦。そこでいきなり総合9位に入ると、続くミニイベント・「シャムロックラリー」では総合3位に入賞。ルーキーらしからぬ走りで周りを驚かせた。

4輪転向後では初となるパリダカには、プロダクション部門にエントリー。ぶっつけ本番で乗った車ではあったが、序盤からクラス2位をキープ。マシントラブルでリタイヤするも、それまでトップ争いを演じ、そのポテンシャルを見せつけたのである。

その後再びトレーニングを積み、「デザートエキスプレス」では総合2位、そして「シャムロックラリー」で総合優勝を果たし、さらにレベルアップ。そして迎えた2度目のパリダカでは、総合11位、日本人ではトップの成績をたたき出し、ドライバーとしてのセンスを開花させたのである。

そして迎えた3年目、2006年パリダカには、いよいよトップカテゴリー、スーパープロダクションのマシン、NISSAN ピックアップでの参戦が決定。ぶっつけ本番のイタリアンバハでは予選2位(本戦はマシントラブルで後退)を記録。その才能を見せつけた。

しかし2006年、ダカールラリーでは、相次ぐマシントラブルに見舞われ、実力を発揮できずに終わってしまった。

NISSANがその後ダカールラリーから完全撤退してしまった事もあり、2007年のダカールラリーでは、三橋は新たにトヨタオートボデーと契約。心機一転、プロダクションクラスで優勝を目指しエントリー。初めての日本人主体のチーム、そして素人ナビゲーターとのコンビという通常では考えられないタスクを与えられつつも、自らナビゲーションをこなしながら走る、バイク時代の感性を活用し、見事クラス優勝を果たす。

そして2008年、三橋は再びトヨタオートボデーと契約し、プロダクションクラス2連覇を目指したが、この年、アフリカの情勢不安によりダカールラリーが中止となってしまう。

しかし2009年。ダカールラリーは舞台を南米大陸に移し、装いも新たに再スタート。三橋も、再びトヨタオートボデーのドライバーとして、クラス連覇を狙うも、不運のマシントラブルにより後退。しかし2010年には再び同クラスで最多優勝9回を記録し、堂々のクラス優勝を果たした。

2011年には再びプロダクションクラスに挑み、自身3度目の優勝を達成。2位に15時間以上もの大差をつけ、さらには総合でも12位に入る活躍見せつけ、プロダクションクラスに敵無しの実力と世界に高く評価された。
2012,2013と不運が重なりクラス2位、リタイヤと連敗が続いたが、2014には2位に1時間半の差をつけてダカールラリーのT2チャンピオンに返り咲いた。これでダカールラリーでは市販車部門で4勝となった。
 続く2015、序盤から体調不良で本来の走りがうまくできないながらも、市販車部門を連覇し、5勝目をあげる。しかし、チームとの見解の相違によりチームを離脱。そして去就が注目される中、2016年はKTMとタッグを組んで2輪にカムバックし、見事完走。日本人ライダーとして南米となったダカールラリー初の完走者となった。